文集

北森さんや作品への想いを色々な方法で綴って頂きました。
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『堕天使殺人事件』のことなど / 愛川 晶

 北森鴻さんのことは、今でもよく思い出す。地方在住で、しかも兼業作家である私にとっては本当に貴重な同業者の友人だったから、今もご健在であれば、きっと定期的に電話し、情報交換という名の愚痴の言い合いをしているだろう。
 そんな北森さんが何の前触れもなく急逝され、どれほど強い衝撃を受けたかについては、すでにあちこちに書いたので省略するとして、一周忌の折、山口へ伺って古いご友人3人と飲んだのだが、彼の性格については簡単に全員の意見が一致した。
 要するに、甘えん坊で寂しがり屋。本人が聞いたら怒るだろうが、これでほとんど言い尽くされている。つけ足すとすれば、大変な努力家で……あとは、厳密には性格ではないが、あふれんばかりの才能の持ち主だったことくらいだろう。
 とにかく、学生時代から大の甘えん坊で、自分が甘えられる相手を見つけるのがとてもうまかったそうだ。
 北森さんにとって私は年長なだけでなく、鮎川哲也賞の先輩で、しかも都合のいいことに、ほかに仕事をもっている。『増刷しました!』なんてことが気楽に言える稀有な相手だったのだろう。一時期は三日に一度くらいは電話がかかってきた。

 本格ミステリーの作家仲間が11人集まり、『堕天使殺人事件』(角川書店 1999年)というリレー小説を書いたことがある。事前の打ち合わせなし、途中での相談なし、前の執筆者から引き継いでから2週間後が締切。今にして振り返れば、よくもあんな過酷な条件を全員が呑んだものだと思う。
 これは余談だが、出版後に『あれ、マジで打ち合わせなしだったんですか?』と何度か質問された。実は企画の段階で執筆者一同が角川書店の会議室に集まっているのだが、その時に話し合われたのは、カギカッコをどれにするかとか、漢字の開き方(どの程度ひらがなにするか)とか、そんな話ばかりだった。ストーリーについては、本当に何も相談はしていない。
『堕天使殺人事件』の執筆順は、北森さんが3番め、私が10番めだった。なぜこの順になったのは忘れたが、ラス前って、バレーボールで言えばアタッカーにトスを上げる役目なので、最もきつい立場だし、トリを務めるのが本格ミステリーの鬼・芦辺拓さん。おかしなトスなんぞ上げたら、叱られるに決まっているから、はらはらしながら展開を見守っていた。
 トップバッターは二階堂黎人さんで、次が柴田よしきさん。ここまでは無難に過ぎて、北森さんの番になり、担当から送られてきた彼の原稿を読んで、激怒してしまった。
 内容については、実物を読んでいただいた方が早いので説明はしないが、まあ、やりたい放題である。おもしろいと言えば抜群におもしろいが、こんな極彩色で穴だらけの大風呂敷を広げられたのでは、後続者は途方に暮れるしかない。しかも、畳み方を彼に尋ねるのはルール違反で、絶対禁止なのだ。
 あんまり頭に来たから、『他人の迷惑も考えろ! もう一生つき合わねえ』と書いたファックスを送ったのだが、すると、1分も経たないうちに電話がかかってきて、何だかんだと言い訳を始める。要するに私に甘えているのだが、あの人懐っこさは無類のもので、つい丸め込まれてしまった。
 偉いと思ったのは次の番があたっていた篠田真由美さんで、一切苦情は言わず、その代わり、北森さんが張った伏線はすべて無視した。その後も似たような状況が続き、結局、火中の栗を拾うはめになったのは私で、とんでもない苦労をして、どうにかつじつまを合わせたことを覚えている。
 けれども、実際に本が完成してみると、ただ無難に役割を終えた者よりも、北森さんの方がずっと作品のクオリティ向上に貢献している。つまり彼が提示した謎がそれだけ魅力的だったわけで、悔しいけれど、あのあたりが才能だろう。

 北森さんが亡くなった翌年の3月に、新宿区神楽坂の日本出版クラブ会館で『北森鴻さんを偲ぶ会』が開かれた。当日はご両親やお兄様も上京され、百名以上の出席者を得て、盛大で、しかも心温まる会になった。一応私が発起人代表で、準備は確かに大変だったが、ご両親の笑顔を見ることができ、とてもうれしかった。
 そして、そのちょうど1週間後が東日本大震災。福島市在住の私はあまりにも大きな被害に呆然としながらも、『北森さんの会が今日でなくてよかった』としきりに考えていた。
 あの世とやらで北森さんに会ったら、真っ先に『代わりに親孝行してやったんだから、ちゃんといい飲み屋を紹介しろよ』と言うつもりだ。

酔鴻忌・北森鴻に寄せて / あおい

私が北森さんの作品に初めて出会ったのは今を去ることン十年前、やたら華やかな名前の探偵さんが登場し、ロジックとトリックが斬新なばかりで文章はどうにもという日本のミステリーに辟易し、翻訳物のアーロン・エルキンスやらサラ・パレツキーやらを読んでいた頃でした。
ミステリーのアンソロジーで『不帰屋(かえらずのや)』、作者北森鴻、美貌の民俗学者蓮丈那智と紹介文を読んだ瞬間、初めて読むけど北森鴻お前もか..と思ってしまった訳ですね。
そういう先入観があったせいか読後は変わった切り口で書く作家さんだな~という印象が残っただけでした。
その後たまたま図書館で『花の下にて春死なむ』を見つけ借りたところから怒涛の北森フリークが始まり、図書館の北森作品全て読みつくし倹約家を自認する私が文庫になるのが待てずハードカバーを買ってしまう暴挙(?!)まで。
どの作品を読んでもいったいこの人の頭の中はどうなっているのかしらんと思わずにはいられない引き出しの多さとリンク感、そして何よりもなかなかの離れワザを納得させる筆力。
どれだけ私の人生に楽しみを与えてくれたかは言葉では言い表せないものがあります。
酔鴻忌にも参加させていただき北森さんの人となりについて、作品についてのお話も聞くことができ皆さんと二次会で色々な話題で盛り上がり至福の時を過ごさせていただきました。
北森さんが亡くなろうが、酔鴻忌が来年で最後となろうが私の中では永遠に不滅(どこかのプロ野球チームみたいですね)なのです。
最後に管理人のカズさん、北森さんの人となりのお話しや、関連の書物をお持ち下さった北森お兄様、浅野先生、いつも素敵な冊子を作って下さった秋永さん、投稿して下さった網浦圭さん。そして酔鴻会のステキなメンバーの皆様、ありがとうございました。

北森作品における女性考 / 明子

北森作品というより旗師シリーズ女性考かな。
冬狐堂こと宇佐見陶子が一番好き。同性・同世代にシンパシーを感じるから。
硝子さんはちょっと近寄りがたい。イメージとしては天海祐希をブートキャンプでムキムキマッチョにした感じ。ほら恐い(笑)
蓮丈那智先生も登場するけど、この方は「性別:蓮丈那智、年齢:蓮丈那智」だし、人じゃないふしすらあってシンパシーどころではない。

で、その陶子さんは1964年生まれで170cm近い長身。少しきついアーモンドの瞳にやや尖った顎。ストレートの髪を後ろでまとめ、化粧気がなく踵の低い靴にスーツ姿で「どこかの教師」といった風采。後日『狐闇』で「どこかの教師」は「東敬大学准教授」に雰囲気がそっくりであると判明するのですが(顔つきや髪型はまったく違う)。

見た目の印象通り、言動も常に慎重と細心を心掛けているのが好ましい。例えば家に帰ればすぐ化粧を落とし指をウェットティッシュで丁寧にぬぐう姿。肩こり対策のマッサージチェア。子羊革のソファを中心とした飾り気のない部屋。珈琲、紅茶、ワイン、ウィスキーなど嗜好品は充実(食材の備蓄は乏しい)。自宅の保管庫(セキュリティ緩くて槐多を盗まれた)。癒しのガスパール(美術品と猫って相性悪すぎ)……あれ? ちょっとダメ出し入りましたね。でも生活を整えてる感じが好きです。

社会人としては経済面も大切。ざっと読み直しても二千万円は下らないマンション、 自家用車、二千万を工面できる預金、収蔵庫には純利一千万のペルシャ三彩、千五百万の織部 等々、独立後十余年でこの資産は凄腕すぎる。

美しく有能な陶子さんですが、肩こりに悩んだり、知り合いの供養を引き受けてしまったり、「八咫烏」と口を滑らせて大変な目にあったり、青田買いの緋友禅を盗られたり、あげくに目利き殺しを仕掛けようとしてストレス性胃穿孔で倒れるあたり、印象とは裏腹な、思わず心配になるほどの人情味が一番の魅力だと思う。
敢えて暴論だけど(小声で!)男性の描くミステリには「そんな女性はいないよ。夢見すぎだよ」と突っ込みたくなる女性キャラが多い。人形のようなヒロイン系や、テンプレ過ぎて不自然な天然系(矛盾)に中身ゴリラな色気美人とか。
そんな中で陶子さんのちょっと古風な人情味や、なにかと裏目に出る誠実さは救いだったし、どこか異彩を放っていた。時には「人をだまくらかす狐の目」になり、「ウブじゃ生き抜いていけないもの」とうそぶきながら外の世界に飛び出していく姿もまた働く女性の指標になってくれた。小説の楽しさってこの共感性だよね。

旗師シリーズ、ずっと読み続けていたい…新作を読み続けたかった作品の一つです。
北森鴻さん、ありがとうございました。あらためてご冥福をお祈りいたします。

香菜里屋はベータカプセルである ~花の下にて春死なむ~ / 秋永正人(N市のA)

岡山県津山市への取材から戻った北森さんにお会いしたのは2007年12月、厳寒の京都だった。
「今度は邪馬台国の話だよ」
 祇園重兵衛(当時)で盃を重ねながら新連載の構想を語る北森さんは楽しそうだった。けれど北森さんにお会いしたのはその夜が最後になった。
 2010年に急逝した北森鴻の小説の舞台となるビア・バー「香菜里屋」とマスター工藤哲也を主人公に12年にわたって書き継がれた香菜里屋シリーズの第1作が『花の下にて春死なむ』である。1999年に第52回推理作家協会賞を受賞したこの作品の舞台「香菜里屋」に私なりの(独断と偏愛に満ちた)解釈を試みる。それがこの小論の目的である。  

香菜里屋とは何か。
 香菜里屋の前に表題の「ベータカプセル」に触れておく。ベータカプセルとは科学特捜隊のハヤタ隊員がウルトラマンに変身するためのアイテムである。ちなみにベータカプセルから発する閃光をフラッシュビームといい、この閃光がハヤタを包みウルトラマンに変身する。(半世紀前の古い話ですいません)
 香菜里屋はベータカプセルであるとは、つまり香菜里屋とは「誰かを」「何かに」変身させるアイテムではないか? 筆者はそう考えた(妄想した)のである。順を追って述べる。
 香菜里屋とは工藤哲也が経営する安楽椅子探偵事務所であり、ビア・バーはその付け足しにすぎない。…などと言えば多くの北森ファンのひんしゅくを買うだろう。登場人物と読者に供される料理と度数の異なる4種類のビールこそが香菜里屋を香菜里屋たらしめているのだから。それを承知で断言するが、工藤哲也と香菜里屋とは、安楽椅子探偵(事務所)にして北森鴻の作品世界全体を支える演出装置なのである。
第1回松本清張賞(1994年5月、日本文学振興会主催)の第2次審査を通過した19篇のなかに新道研治『奇跡の花の下にて…』という作品がある。題名から『花の下にて春死なむ』の原型作品と考えて差し支えないだろう。松本清張賞への応募はパンドラ’Sボックス光文社文庫版の86 ページで言及しているし、『花の下にて春死なむ』講談社文庫版29 ページには“奇跡の花の下で無名の俳人逝く”というくだりがある。この作品のプロットも探偵役も不明だが、前述のくだりがあることから片岡草魚の半生を飯島七緒が追うというストーリーは同じではないかと思う。
仮にこの作品に香菜里屋という舞台がなかったらどうなるだろう。安楽椅子探偵たるマスター工藤哲也も存在しないことになり、ヒロイン飯島七緒が探偵役を兼務することになる。ミステリの世界ではホームズとワトソンの昔から探偵役と助手役、狂言回しは分業と決まっている。主人公で、探偵で、さらに物語の狂言回しまでを一人の人間が行うのはさすがに無理がある。そんなスーパーマンみたいな登場人物にはまるでリアリティがない。『花の下にて春死なむ』では、香菜里屋とマスター工藤哲也が探偵役と狂言回しを担うことでヒロインとの役割分担ができ、七緒の旅や草魚と姉とのエピソードを十分に書き込むことができた。さらに香菜里屋が推理空間にとどまらず出会いと別れの場、そして物語の「間」として機能したことが、物語にいっそうの「深み」を与え、エンターテインメント作品として完成されたのだと筆者は考えている。

究極型探偵の登場
 北森作品の主要キャラとして工藤哲也、宇佐見陶子そして蓮丈那智を挙げることに異論はないと思う。主演作は少ないものの越名集治も捨てがたい。この魅力あるキャラクターを創出しえたことが、北森鴻がミステリ作家として成功した理由のひとつだろう。
ただし香菜里屋と工藤哲也は北森作品の主要キャラクターでありながら、狂言回し的な位置にいる。工藤哲也は安楽椅子探偵というよりも作者北森鴻に極めて近い位置を占めている。つまり北森鴻の分身が香菜里屋のカウンターに立って、訪れる客(彼が創出したキャラクターたち)と語り合うという一種のメタ構造を持っている。
そこで北森作品の主要探偵を那智、陶子、越名の3名としてその属性を見てみると、那智は文句なく天才(型探偵)である。明智小五郎や神津恭介なのだ。対して、あちこちで罠にはめられ、叩かれ、それでも真相に辿り着こうとする努力型(苦労型?)の探偵が宇佐見陶子である。金田一耕助なのだ。対して雅蘭堂店主、越名集治に割り当てられたキャラはバランス型というべきか職人型と言うべきか。眠り猫のような目だが実は目利き、長年の知識と技術で事の本質に迫る職人型探偵である。
 3人の初出は、陶子が1996年(「狐罠」)、那智が1998年(「鬼封会」)、越名が1999年(「ベトナム・ジッポー・1967」)である。むろんシリーズ化を前提にしていたわけではない。本人は一作限りのつもりだったが、好評につき続編を求められたというのが本当のところで、なんと今度は探偵の相互乗り入れを始めた。相互乗り入れは那智シリーズの『双死神(1999年10月初出)』と冬狐堂シリーズの『狐闇(2000年10月新聞連載開始)』に始まる。別シリーズのキャラクターが相互乗り入れをするという北森流は、個々のシリーズの個性を薄めてしまうというリスクがあるが、それでもあえて相互乗り入れを行ったのには理由がある。
その理由は、北森作品のテーマである「邪馬台国とは何か」「魔鏡とは何か」「税所コレクションとは何か」等々の謎にまつわる壮大な陰謀にある。その陰謀に那智と陶子と越名は追い込まれ、3人は三位一体で壮大な敵に対抗することを余儀なくされる。天才と努力家と職人の合体形態、いわば“究極型探偵”の誕生である。その究極型探偵が挑んだ最大の謎が(北森にとっては未完となった)『邪馬台(鏡連殺)』である。つまり香菜里屋は、北森鴻の作品世界全体を支える演出装置にして、3人の探偵を超人=究極型探偵に合体変身させる「装置」だったのである。

再び、香菜里屋とは何か
 なぜそんな変身装置が必要か。「超人に変身するにはやっぱりそれなりの演出というかアイテムが必要だな、うん」と、北森鴻が考えたかどうかはともかく、壮大な陰謀VS超人という設定、展開はともすればお子様向けに見られがちである。それを大人が楽しめるエンターテインメントに変えるのが香菜里屋という推理空間、メタ空間なのである。
では、そもそもなぜ究極型探偵を誕生させる必要があったのか。それは壮大なテーマや謎、そして陰謀に対抗するには陶子の行動力、越名の職人技、そして那智の天才性を併せ持つ超人でないと物語として釣り合いがとれないからだ。かと言って、前述したように一人の探偵がそれらすべての属性を併せ持つ超人だとしたらあまりにリアリティがない。やっぱりお子様向けの作品だと言われかねない。そこで普段は准教授、旗師そして骨董屋店主というリアリティを持ちながら、いざという時だけベータカプセルが一閃し、ウルトラマンならぬ究極型探偵に合体変身するのである。そのベータカプセルの役目を担う「装置」がほかならぬ香菜里屋であり、工藤哲也なのである。
 北森鴻は、「連作ミステリの私的方法論」(『ミステリの書き方』幻冬舎刊)の中でこう述べている。
 「さて、シリーズミステリを執筆するうえで、留意しなければならない点をいくつかあげておこう。
 キャラクターと設定の安定。そこにはとりもなおさず「マンネリ」という陥穽が待っていることを忘れてはならない。事件の発生→キャラクターとの関わり→解決への条件提示→解決。一連の流れを安定と考えるか、あるいはマンネリと考えるか。作家のアイデアが問われるところであろう。わたしの場合、毎回作品の切り口を変えることで緊張感のあるマンネリを演出しているつもりである。
探偵の超人化にも気をつけねばならない。シリーズを重ねるにつれ、探偵は次第に欠点を克服し、より完全体に近づこうとする。どうしてもそうなってしまうのである。」

つまり名探偵は、陳腐化(マンネリ)と超人化という宿命を併せ持つ。その宿命を回避するために北森鴻が打った手が、“緊張感のあるマンネリ”を演出することと、超人化の上をいく“超超人化”であった。ここぞという時に超超人=究極型探偵に変身することで、超人化・陳腐化という宿命から解放されるという逆説的な効果が生まれた。さらにオールスター総登場で読者をワクワクさせながら、3人の名探偵が香菜里屋という装置によって超超人=究極型探偵へ変身するというケレン味たっぷりの演出がなされたのである。
 さて『邪馬台』完結後、究極型探偵はもとの准教授と旗師と骨董屋の店主に戻り、それぞれの世界で生きてゆく。香菜里屋も北森の作品世界から姿を消す。しかし工藤哲也は帰ってくる。香菜里屋は復活しなければならなかった。なんとなれば究極型探偵を必要とする事態が北森鴻の作品世界で必ずや再び起こるからである。壮大な謎と陰謀が迫り来る。危うし! 那智、陶子! 越名! その絶体絶命の状況で工藤と香菜里屋が復活し、3人は再び究極型探偵となって陰謀を打ち砕くのだ。だからこそ北森鴻は変身装置である香菜里屋を閉め、工藤哲也をいったん退場させたのである。復活の劇的な効果を最大限まで高めるために。

おわりに
 香菜里屋とは、那智と陶子と越名が究極型探偵に合体変身するための装置だった。では『邪馬台』の完結後、再び究極型探偵が必要とされる事態とは何か。「僕の頭の中には向こう10年分の構想がある」と豪語した北森鴻がもし健在であったならば、平成が終わろうとするまさに今、その謎が究極型探偵によって解明されつつあったにちがいない。今さらながら急逝が悔やまれてならない。あらためて北森さんのご冥福をお祈りし、私の妄想である「香菜里屋ベータカプセル論」を捧げたいと思う。どうか怒らないでください。

遠い日の朗読劇 / 芦辺 拓

 ――ご依頼をいただいたこのエッセイ、もともとは「私は怒り続ける」と題して、北森鴻氏のあまりに短かった作家活動をさらに縮め、本来ならつかめたであろう栄冠から遠ざけた件について(文体もふだんエッセイなどを書くときの「です・ます」調をやめて)、書くつもりでした。東京創元社の「ミステリーズ!」vol.40の追悼文でもほんの少し触れた、あの何とも腹立たしいデビュー時の足踏みについてですが、書きかけてすぐ、これはどうしようもない内容にしかなりそうにないと、やめにすることにしました。
 そのかわり、今回は別の思い出話を書くことにしました。北森氏の没後1年と2か月弱……まだ日本がこんなにキナ臭くなく、こんなに口汚く罵り合うこともなかったニッポン・ヴァイマル時代、某氏の言によれば〝プラハの春〟ともいうべき日々の一コマです。

 あのころのことは、すでに記憶の彼方にぼやけていってしまっていますが、光文社の「小説宝石」2010年3月号の私自身の寄稿によると、北森さんの訃報に接したのは、平成22年1月25日――その日の午前3時ごろに山口市内の病院で亡くなられ、その晩にお通夜、翌日午前には告別式という急さだったため、友人作家のほとんど誰もが、彼と最後のお別れをすることができませんでした。
 その少し故郷の山口県に戻られ、もっぱらそこで健筆をふるっていた氏とは、それまで当たり前のように会って語り合うことが途絶えていたのです。それゆえの後悔も大きかったところ、有志とりわけ愛川晶氏の尽力で「北森鴻氏を偲ぶ会」が開かれたのは、その1年と少したってのことでした。
 場所は神楽坂の日本出版クラブ会館・鳳凰の間――明るいうちに始まったような記憶があったのですが、手元の記録だと午後5時。2008年に北森さんの編集担当者となった光文社S氏の司会進行で、まず本格ミステリ作家クラブの辻真先会長と日本推理作家協会の東野圭吾理事長(いずれも当時)があいさつ。次いで愛読者だったという来賓のピーコ氏、発起人を代表して愛川晶氏が壇上に立ち、北村薫氏の発声で献杯――。
 などと書き並べればきりもありませんが、この偲ぶ会には、私の提案で一趣向を付け加えさせていただきました。
 それは、北森作品のいくつかをプロの声優さんたちに朗読してもらおうというものでした。そのため日本のアニメライター第一期生というべき人物である大沼弘幸さんのお世話で、私の作品を取り上げていただいたこともある音声劇団VOICE☆(ボイスター)からの出演をお願いしたのです。
 歓談や思い出映像の上映をはさんで、まずは巽理絵さんが鮎川哲也賞受賞作の『狂乱廿四孝』のプロローグを朗読。
 続いて、『花の下にて春死なむ』収録の「殺人者の赤い手」冒頭を二階堂裕美さんの語りで。当初は推理作家協会賞受賞作である表題作のラストシーンを予定していたのですが、遺族感情を考えて差し替えてもらいました。
 さらに『パンドラ’s ボックス』収録のエッセイ「短編デビューまで」を瀧美保さんが――という構成でした。
 シンと静まり返った会場に響く彼女たちの声。なぜ録音を取っておかなかったか。今も悔やまれてなりませんが、それ以上に私が感じ入ったのは、北森氏が私などには追いつこうとして追いつけないほど、作家としての実績を積み上げていたということでした。そして、そのキャリアが、もうこれ以上は加えられることはないのだということも……。
 そして、お開きを前に、今度は三人全員での朗読劇。初の新聞小説であり、北森作品のスターたちが集結した『狐闇』のラストを演じてもらったのです。
 確か二階堂さんが宇佐見陶子、瀧さんが蓮丈那智、そして巽さんが地の文の語りを担当され、オーディオドラマのライブのように演じられた一場面は、来会者により大きな感銘を与えたことはまちがいありませんでした。

 この朗読劇を聴いていたとき、そしてそのことを思い起こす今も、考えずにいられないのは、北森氏が達した高みと、それが彼自身の手ではもう積み増されることがないという事実。だとすれば、なおさら冒頭で触れた思いが……おっと、その「怒り」については、今回は語らない約束でしたね。
 ついでながら、「北森鴻氏を偲ぶ会」が開かれたのは2011年3月5日のこと――あの東日本大震災のわずか6日前のことでした。あの出来事をはさんで、さまざまなものが変わってしまい、善悪正邪の基準さえ顛倒してしまったかのようですが、それだけにあの遠い日の集いが、とりわけあの朗読劇があざやかに、ついこの間のことのように思い出されるのでした。

わが弟との思い出 / 北森兄  荒戸 邦朗

1961年11月15日彼は新道家の次男として生まれた。この年、私は幼稚園年少組。母親が出産で入院していた頃、私は下関市内の母方の祖母に預けられ暮らしていた。父は母の病院の近くの社宅に一人住まいしていた。ある日、祖母と母親の入院する病院に見舞いに行った際、私は「お父さんと一緒にいる」と言って祖母の家に帰りたがらなかったことをおぼろげながら覚えている。そして彼は生まれた。
 彼が小学1年生のころまで、私たち家族は下関の母方の祖母の家に同居していた。唐戸市場の近くで、作家 林芙美子の生家が国道を挟んだ向かいにあった。家の前には公園、傍に小高い丘があり、近所の子供らと一緒に私たち兄弟も、そこら中、駆けずり回っていた。
 彼が小学2年生の時、父の転勤で宇部市に転居した。父親が勤務する会社の社宅に住んでいたが、家の近くに山口大学工学部のキャンパスがあり、そこの柔道場に行っては「かくれんぼ」をして遊んだ。私は小学6年生、卒業間近ということもあり、同級生や担任の先生と一緒に遊園地に行ったり、近所の子らとクリスマス会などをしたりしていたが、その際には必ずと言っていいほど弟がついてきていた。
 彼が小学4年生の時、やはり父親の転勤で山口市湯田温泉に移り住んだ。彼が最期を迎えたマンションのすぐそばに引っ越した。彼は小学校のブラスバンドに入りユーフォニウムを演奏していた。私が撮影した写真には、みんなは演奏しながら前を向いて歩いているのに、なぜか彼だけが後ろ向きになって演奏している姿が映っていた。あの写真はどこに行っただろう。
 中学生の頃、彼は近所にあった児童施設で本を借りよく読んでいた。その頃、親にも誰にも言わず密かに文章を書いては、投稿したり懸賞に応募したりしていたようだ。この頃から小説家への夢を抱いていたのだろうか。彼にとっても私にとっても山口市湯田温泉での6年間はそれからの人生に大きな影響を与えてくれたように思う。
 彼が高校受験する頃、父親は再び宇部市への転勤が決まり、受験をどうするか、いろいろ悩んだ末に宇部市の私学に入学した。その頃私は大学に入学し京都に住むようになった。その年、彼は一人で京都に遊びに来た。そのころ、山口にはまだなかったマクドナルドでハンバーガーを食べたり、二人で奈良の斑鳩の里を巡ったりした。
 高校3年生の時、彼は生徒会長をしたが、その頃に喫煙が学校にばれ停学処分。顔がばれないようサングラスをかけて学校に顔を出していたらしい。  東京の大学への入学が決まった際、彼の下宿先を探すために、親の代わりに私が京都から東京に付いて行った。そこで下宿地として決めたのが三軒茶屋だった。
 そこから先は私より皆さんのほうが彼のことをよくご存じだろう。

 ところで、先日、今や空き家状態となった実家に戻った際、彼が長年書き続けてきた日記の中から、亡くなる2年前からのものだけを京都に持ち帰った。
 内容は、その日どこで何を食べたかをメモしている程度だが、ところどころにコメントが記されている。
この日記、彼が住んでいた湯田温泉のマンションに無造作に置かれていた。両親と整理に行った際に見つけたものだが、それ以来、見る気にもなれずそのままに実家に置いてあった。先月、帰省した際に彼の遺品を整理していてこの日記を見つけた。あらためてこの日記を読んでみると、彼がどのような生活をしていたのか、その様子が垣間見えてきた。亡くなる2〜3か月前あたりから相当に具合が悪かったことがわかる。なぜ病院に行かなかったのか? 悔やまれてならない。

こうしてみると、彼は金銭的な財産は私たち親族には借金以外は何も残さなかったが、彼との懐かしい思い出、多くの作品、そして多くのファンのみなさんという貴重な財産を残してくれた。これからもこの遺された財産を大切にしていきたい。
もし、機会があればこれをお読みの皆さんと一緒に、彼の小説の舞台となった山口県を見て回りたいものだ。

 彼と両親は現在、宇部市営の墓地に眠っている。両親の十三回忌までは京都にいながら私が見守っていこうと思うが、私もすでに還暦を超えた。いつまで実家の墓を守っていけるか不安である。いずれ墓の整理をし、寺に預けようと考えている。

「私の北森鴻(作品)『観』-『論』ではなく」 / 一言多過氏

 北森作品との出会いは、イギリスのロンドンにある日本語書籍やCDを扱っている古本屋でした。買い求めた日本推理作家協会編のアンソロジーを読んだ折、その中の一作として『バッド テイスト トレイン』があったのです。即その作風に引き込まれ、他の作品はないものかと足しげく古本屋を訪ね、二作目に読んだ作品が『凶笑面-蓮丈那智フィールドファイルI』でした。表紙の絵図に魅せられて手にし、裏表紙を読むとどうやら民俗学に関連したミステリーと知り興味を一層かきたてられました。解説を読むと骨董品がからむミステリーも著わしている方だと知り、そこから広く深ーい北森ワールドへの周遊旅行が始まりました。

 古本屋で作品(文庫版)を見つけるに任せて読みましたので、同一シリーズ中の作品も発行年順に体系的に読むことはできませんでした。(今は全著作が揃いましたので、順序に沿って読んでいます。)

 そんな事情でしたので、白状すると私は文庫版で読む際は、1.解説を先ず読む、2.次に最終数ページを読む、3.そして本文を一ページ目から読む読者です。この読書法には理由があるのです。1.作品をより良く理解するためには、著者及び作品に関する背景知識が必要不可欠です。2.小説(ジャンルを問わず)を読む行為はWhat(何が描かれているか)ではなく How(どのように描かれているか)を楽しむ行為だと思っているからです。Whatを楽しむなら「(小説、ドラマ、映画)あらすじ、ネタバレあり」コーナーでも検索してそれを読めば済むことです。作家諸氏は読者に自分が掲げる主題、主張等をくまなく理解してもらうべく、言葉、表現、修辞を尽くして文章を紡いでいるのでしょう。北森さんもそのお一人です。連作短編集という形式を採用したり、異なる作品間での登場人物の相互乗り入れを実現しているのは、 Howを大切にしている証左の一つだと思います。

 先述のような文庫本の読み方をした、限られた私個人の経験では、自分が「興味深い、傑作」と思えた作品は、知っている筈の結末も読んでいる間に忘れさせてくれるのです。それだけストーリー展開に私を引き込むことに成功しているのでしょう。暫くして再読しようとする際、不思議とストーリー展開から何から殆ど覚えていないのです。(もしや、私の脳に問題が…?)それ故に繰り返し読むことになるし、読むたびに新たな発見があります。逆に「つまんねえ、退屈、駄作」と思った作品はよく覚えていて再読することはありません。北森全作品が私をして何度も再読させてくれるのは、北森さんの提供してくださるHowが素晴らしいからでしょう。ホント、北森作品の各作品は良く覚えていないのですよ。Howに拘るということは、ディテイルに拘ることにも通じると思います。北森さんは「神は細部に宿る」を具現化していると言えるのではないでしょうか。

 ご本人が「同じトリックを何度も使いまわして…」と仰っていますが、これも「どんな」トリックを使うかではなく「どのように」トリックを使うかに気を遣っているからです。トリックそのものには関心はないんだと思います。「過去に使われたトリックを使用していた」という理由で受賞を逃した(翌年受賞)例がありますが、私はあの考え方はナンセンスだと思っています。「このトリックを使って作品を完成せよ」と十人の作家諸氏に依頼すれば、まさに十人十色の異なる作品が上がってくることでしょうから。

 北森さんは作品を書きだす前に、できる限り細かく詳細に荒筋、状況設定、人物像(などはその人物の履歴書を書くくらい詳細に)を作成することは周知のことですが、これもHowを大事にしている故の小説作法だと思います。

 私は北森鴻さんにお会いして話したことも、ご講演に足を運びお声を聴いたこともありません。残念至極です。お話しする機会があったなら、いろいろなことを煙たがれる迄言い尽くしたかったです。

 最後に言わせてください。「同じトリックの使い回し結構。異なる作品にまたがりある作品の登場人物が他の作品に登場すること大いに結構。同一シリーズの作品中、以前の作品に何気に言及したり、その状況の一部を引用したりも大々的に結構。その一つ一つを覚えている自分、その言及、引用が意味することを知覚、理解できる(読者としての)自分が嬉しいのです。「大いなるマンネリ」も大歓迎です。北森鴻さんは全作品を通じて私の愛読者心をくすぐってくれる稀有な方です」と。 

 かくしてこれからもずっと北森鴻ワールドの散策は続きます。

NON TITLE / 一橋

酔鴻忌文集に寄せて / 岩嶋 東也

私は3年前まで東京都世田谷区深沢という町に住んでいました。乗降駅は東急田園都市線の「駒沢大学」駅です。この町は三軒茶屋の隣の駅ですが町の賑わいは比ぶべくもなく、駒沢オリンピック公園と駒沢大学が町の顔でした。しかし世田谷区立図書館の分館とブックオフが家の近くにあり私にとっては便利な町でした。
 北森鴻さんの本と出合ったのは確か2008年頃かと思います。申し訳ないのですが当時「北森鴻」の名前は全く知りませんでした。私はどちらかといえばハードボイルド小説よりも「ユーモア探偵もの」が好きで、逢坂剛の「御茶ノ水警察署シリーズ」や藤田宜永の「探偵・竹花シリーズ」などを漁っていました。
 ある日、たぶん世田谷図書館分館だったと思いますが、何気なく手にしたのが『香菜里屋を知っていますか』でした。マスターのエプロンの柄の描写が印象的だったのとページの中から料理の湯気と香りが匂いたつような表現に惹かれ、それからは北森鴻シリーズを探し求めました。世田谷区、千代田区図書館と何軒かのブックオフにある北森さんの本は全部読みました。三軒茶屋は隣駅ですので何とか「香菜里屋」のモデルと思われる店を探したいと思いましたが北森さんの描写では手掛かりがつかめず断念しました。その代わりに池尻大橋にある「翁」は探し当てて友人と呑みに行きました。  気になったのは「裏京都シリーズ」の舞台となる嵐山の大悲閣千光寺でした。学生時代の友人が滋賀県大津市にある義仲寺の庵主となり毎年5月に俳人芭蕉に因む奉扇会という行事を行いますが、2009年その行事に参加することになりました。この機会に嵐山に足を延ばそうと思いましたが比叡山の大阿闍梨を訪ねることになり大悲閣参りは断念せざるを得ませんでした。
 初めて千光寺を訪れたのは昨年でした。昨年12月京都府亀岡市にある「みずのき美術館」を見学することになりました。JR山陰本線を利用しますので、帰途念願の千光寺に行きました。寒気は厳しかったのですが「裏京都シリーズ」で書かれているほどきつい山道でなかったので安心しました。丁度ご住職がおられ「北森鴻さんの本を見てこちらへお伺いしました」と申し上げたところ北森さんのことをいろいろお話しくださり「1月に酔鴻忌で皆さんが集まる」ことを教えてくださいました。さらに私が三軒茶屋に近いところに住んでいることを申し上げましたら、「味とめ」さんの話となり、「次の年の干支の色紙を味とめさんに届けてほしい」と依頼され、お預かりしました。この寒空の中ご住職は素足、サンダル履きで長時間お話しくださったのが印象的でした。
 帰京後早速味とめさんを訪ねると店の建物は無く、建築確認の立て札があるのみでした。立て札記載の建築会社に電話して味とめさんの電話番号を教えてもらい、後日息子さんを通じておかみさんとのアポイントをとって三軒茶屋でお会いしました。話をしているとなんと三軒茶屋に古くから住む私の友人(私より年上の人ですが)とおかみさんは昵懇の間柄だったのです。こんな友人がいながら私は嘗ての「味とめ」に一回も行ったことがないことが悔やまれます。人間どこでどう繋がっているかわかりませんね。
 そして本年1月28日酔鴻忌に参加して会員の皆様の輪の中に入らせていただき、ご住職とも再びお会いすることができました。

   折角皆様とご縁ができましたのに酔鴻忌行事が来年で最後となることは大変残念です。しかし大悲閣千光寺はずーっと存続していくのですから、心のよりどころは永遠に嵐山にあります。東京人にとって京都にゆかりのお寺があるということは大変得難いことでありこのようなご縁を頂けたことは北森さんの本との出会いがあったからこそです。

北森鴻さんにあらためて心より感謝申し上げ拙文の結びとさせていただきます。

北森先生と酔鴻忌に感謝  / 大西

自分にとって北森作品の入り口は「凶笑面」でした。
民俗学上の謎と事件の謎が同時に解決される魅力にハマり、そこから自然と他の作品にも手を伸ばすようになりました。 そして香菜里屋・冬狐堂・雅蘭堂・裏京都など各シリーズがリンクしていくことにワクワクしながら、もっともっと北森ワールドが広がっていくのを楽しみにしていた矢先の突然の訃報でした。
 酔鴻忌の存在を知り、参加しはじめたのは第3回くらいからだったと思います。
大悲閣が改修中で、まだ裏京都シリーズに登場するとおりのボロボロの状態でした。
その後は毎年参加するようになり、東京での味とめ会にも参加することができました。
 酔鴻忌で同じ北森ファンの方々と楽しく語らい、毎年のように余ったお酒を手に2次会までの道のりを歩いたのはいい思い出です。
酔鴻忌を主催してくれたカズさん、生前の北森さんのことをいろいろ話してくださったお兄さん、北森鴻全仕事を作成された秋永さん、未完となって読むことがかなわないと思っていた「鏡連殺」を書き継ぎ、「邪馬台」として完成させてくださった浅野先生にもあらためて感謝します。
 北森先生、もっと早く作品を読んでいれば、きっと酔鴻忌ではなくオフ会として実際にお会いできたであろうことが残念でなりません。
でも作品はこれからもずっと残り続けます。
本当にありがとうございました。

しんどう くんへ / 嵐山大悲閣千光寺 大林道忠

いかが お過ごしでしょうか?
そちらの 世界は いかがでしょうか?

快適でしょうか
面白いでしょうか

愉快な日々のことでしょう

こちらは
北森鴻という 作家先生の作品の
おかげで 毎日、参詣者が
ぞくぞくと 登山されてますよ。

このお手紙を書く時間が
持てないくらい、対応に
追われています、大笑

しんどう くんの
企みの賜物でございます、
心から 感謝してるからね。

ありがとう、ありがとうございます。合掌

それから、
お願いがあります、
もし、鴻先生が そちらに
向かう気配を感じたら 必ず
追い返すよう 企んで下さいませ。
まだまだ、ご執筆をお頼みいたしたいのです
山寺復活のために。
( 虫が いいぞ )

それに愛読者の方々も
次の作品を
首を長ーくして それはもう
待って待って、
待ちくたびれるので
ございます。

そうだ、
万が一、道をまちがえて、
先生の愛読者の皆さんが、
そちらの世界に 向かうことがありましたら、

是非、追い返してください、
棒を 振り回してもかまいません、大笑

我が友、しんどう くんにしかできないです、
からね。

また、京都の マイナーな 貧しい山寺からの
報告を伝えますね、

いや、10年後は
おかげさまで、
世界に響き渡ってるような メジャーに
なってるかも しれませんぞ、爆笑

お楽しみに、
そして
また、必ず 会いましょう。

風邪 引かぬように
ずい君は 元気だからね、
じゃ、チャオ

、、、、、、、
合掌

酔鴻忌 / 酔鴻思考管理人カズ

北森さんが亡くなられた翌年の1月から酔鴻忌は始まった。
当初このような規模の事は全く考えてなくて、北森さんと縁の深かった京都嵐山の大悲閣千光寺の大林住職に命日の頃に手を合わせたいのでお経を読んでもらえないかと相談した。
大林住職は快く引き受けてくださり、どうせやるならサイトで告知しようということになった。
告知しようとなったけれど、実は10人程度を予想していた。
それでも十分だと思っていた。
だけど当日、なんと40名を超える方が参加してくれた。
そのほとんどが生前の北森さんを知らない読者の方々。
あらためて北森作品が多くの人に愛され支持されていたんだなぁと痛感した。
遺影を前に手を合わせながら、
「北森さん、こんなにたくさんの人が会いに来てくれましたよ!」
と、心の中でつぶやいた。
大林住職がせっかくこんなにお供えが届いてるからみなさんでどうぞと言ってくれた。
これが翌年以降恒例になる酒盛りの始まりである。
そして日も暮れかかってきて下山という頃になって、まだまだ盛り上がりたい参加者の方々と二次会へ行こうということになった
二次会では思い思いに北森さんを、北森作品を語り合い、時間の許す限り三次会四次会と続いた。
これも翌年以降恒例となる二次会(複次会?)である。
回を重ねるごとに酔鴻忌を手伝ってくれる方が増えて僕の手間も随分と楽になった。
二次会会場の選定と予約、告知ページの作成、告知用フライヤーの作成など。
そうそう、これまた酔鴻忌にはかかせない「北森鴻全仕事」シリーズも。
たくさんの方に助けていただきながら続けてきた酔鴻忌だが、色々と思うところもあり2019年1月27日の第九回を最後にしようと決めた。
それに合わせて北森鴻ファンサイト(元公式サイト)の更新も終了する。
これまでに参加してくださったみなさん、毎回欠かさずに参加してくださった浅野先生、北森さんのお兄様、本当にありがとうございました。
会場提供・読経:大悲閣千光寺大林住職
二次会幹事・連絡係:櫻庭美幸さん
告知ページ作成:綾倉紅葉さん
告知用フライヤー作成:さきなさん
北森鴻全仕事:秋永正人(N市のA)さん
運営に協力していただいたみなさんも本当にありがとうございました。

那智&陶子 /河本さとみ

Once in the lifetime meeting / けいすけ

先生が亡くなってあっという間の月日が経ちました。
もっと早く出会っていれば、直接お会い出来たかもしれないのが、少し残念です。
最初はずっと寂しさがありました。もう続きが読めない、登場人物たちに出会えない。未完の作品もあって、こんな面白いところで終わるなんて! と何度嘆いたことでしょう。
でも、先日高校の部活の先生が亡くなって、追悼の演奏会があったんです。その時、いろんな人が、その先生がアレンジした曲、作った曲を演奏するのを聴いて思ったんです。
この中に生き続けるんだ、って。
誰かが演奏し続ける限り、作品は死なないし、作曲者も編曲者も生き続ける。
それは作家も同じなのでしょう。誰かが読み続けて、忘れずにいれば、作者も作品も死なない。
だから、嘆いて、悲しみをみんなで分かち合うのは今回が最後です。代わりに、これから作品が生き続けられるよう周りに伝えていきたいと思います。
いや、ただ単に自分が好きな本を薦めたいだけかもしれませんね。
ファンというのはそういうものですから。
長々と書きましたが、言いたいことを一言で言うならば、

北森先生の作品に出会えてよかった

ただそれだけ。

縁に導かれて / 櫻庭 和寿

 僕は今生にて幸運にも、北森鴻作品と出会うことが出来ました。それも北森さんが亡くなり、酔鴻会も8回目を数えようという時でした。もしかしたらそのまま、出会えずじまいだったかも知れない。北森鴻の作品を知らない人生を歩んでいたかも知れない。喜ぶべきことが起こったのは、すべて大切な人に巡り逢えたからでした。
 初めて読んだ北森作品は『凶笑面』。当時親しくしていた女性、現在の妻に教えられて、読むことになりました。今思えば、あれこそが北森鴻洗脳の始まりであったのだと確認しています。とにかく僕は『凶笑面』を読み、そして、妻というものがありながら僕は蓮丈那智に惚れました。彼女はすべての魅力と言う魅力を持ち合わせていました。いや、持ち合わせている。強さ、しなやかさ、美しさ。ときおり、弱さが覗くような気がするのは、僕の妄想ではないと思います。そういった魅力を持った女性であるからこそ、内藤三國はミクニの立場に甘んじていても、不満も叛逆心も持たないのでしょう。もしかして妻は僕をミクニのようにしたいが為に、蓮丈那智シリーズを渡したのかもしれない。そして僕は北森鴻作品へとのめり込んでいくことになったのでした。
   そして、酔鴻会に参加させて頂くことができて、たくさんの北森鴻ファンに出会うことができました。同じ人、同じ作品に恋い焦がれるもの同士の集まりは、どこか秘密結社めいて見え、僕は戸惑いと感動を覚えました。年齢も性格も性別も、仕事も何もかもが無差別級。ただ、キタモリストあるということだけが共通しているこの集団に、自分もまた混じっていることを嬉しく思いました。他のどんなファンクラブとも違う空気感がそこにはありました。
   今、偶然の縁で導かれ、こうして酔鴻会という素晴らしい集まりの、一つの区切りに立ち会えることに感謝しています。ここで繋がったこの縁、もっと広がって行くことを心から祈っています。

2018年10月28日

北森鴻という作家と酔鴻忌という酒宴 / 櫻庭美幸

私が北森作品に出会ったのは、2005年1月に『孔雀狂想曲』が文庫化された頃だったと思います。
寒い仕事帰りに寄った本屋で、平積みの文庫の中からジャケ買いしたのがきっかけでした。
それから約6年後、2011年10月の『邪馬台』発売の時、新聞の新刊紹介欄で本の紹介とともに、それが遺作であると書いていることを知人に教えてもらい、初めてファンサイトを見ました。

そこには1周忌の法要が執り行われ、一般の読者も出席できることが書かれており、きっとこんな機会はもうない、行かなければ、というなんだか分からない使命感にかられカズさんにメールを送ったことをよく覚えています。

その後1回きりだと思っていた法要も毎年執り行われるようになり、参加者から2次会の幹事をさせていただくほど常連になっていました。

本当はご存命の時にお会いしたかった。
それよりお会いできなくても、お元気でたくさんの物語を読ませて欲しかった。

私は、酔鴻忌に参加してから『会いたい人には会う、見たいものは見る。後悔しないように。相手がいなくなるかもしれないし、自分が動けなくなるかもしれないから』が信条になったような気がしています。そのおかげで交友関係も広くなり、色んな処へ行きたくさんのものを得たと思います。

酔鴻忌は次で9回目、北森さんが逝去されて10年。最終幕です。
今回、文章を寄せるにあたり、題に酒宴と載せました。
酒宴とは酒を酌み交わすこと。
酔鴻忌は法要であるとともに宴の席であったと思っています。

最後に。
北森作品に出会い、多くの方と接点を持つことができ、本当に感謝しています。
ありがとうございました。

2018年10月29日

第九回酔鴻忌フライヤー / さきな

ほんのお口汚しですが・・・  / 下総のアヒル

この文集の話を伺って、せっかくだから私もなにか参加できればと思い早々に参加表明だけはしたものの、いざとなると何を書いていいのかまったく思いつかない情けない有様で。結果締切を過ぎてしまいました。すみません…。

当初は北森作品の魅力を自分なりに書いてみようかと思ったものの、自分の文章のあまりの稚拙さに断念せざるをえませんでした。
そんなこんなで、ない知恵を振り絞って辿りついたのが、この場を借りて酔鴻会の皆さんに感謝の気持ちを伝えるということでした。
お目汚しのような文章で恥ずかしい限りですが、記念だと自分に言い聞かせて提出します。何卒ご容赦のほどを。

私は元々インドア派で、好きな小説や漫画はあってもほぼ自己完結。
たまに行く好きなアーティストのライブですら、ぼっち参戦が基本というSNS全盛の世の中で化石のような日々を送っていました。

「酔鴻思考」を訪れた時も、最初は皆さんの書き込みを読んでいるだけで、参加する気持ちは毛頭ありませんでした。
でも、皆さんが北森先生の作品や、キャラクターについていろいろ書き込んでいるのを読んでいるうちに、ふと自分でも参加してみようと思い立ったのです。
これはもう、自分にしては奇跡に近い行動力でした。

そのうち、管理人であるカズさんより酔鴻思考ニュースを送ってもらえるようになったものの、その後も私の重い腰はなかなか上がらず、酔鴻会の皆さんと交流する機会もないまま、気づけば数年が経過していました。
そんな時、北森先生が過ごした味とめでは最後となる味とめ会が開催されるという告知を見て、ようやく参加する決心がついたのです。

緊張の中での初参加でしたが、酔鴻会の皆さんは新参者の私を温かく迎え入れてくれ、北森先生とのいろんな思い出話を語ってくれました。
話を聞く前は、博識で、その才能を余すところなく作品に落としこめる憧れの作家としてのイメージしかなかった北森先生でしたが、皆さんの思い出話の中の北森先生は、ちょっと破天荒でチャーミングな人間味溢れる姿をしていました。

北森先生が亡くなられてから出版された本の中には未完のものも多く、読む度にこの続きはもう読めないんだという寂寥感に襲われていた私にとって、北森先生の遺志を継ぎ、物語を完成させて世に送り出してくださった浅野先生から執筆するにあたってのご苦労や困難について貴重なお話を聞くことができたことも、ファンとして本当に嬉しく、また、それまで以上に感謝の気持ちでいっぱいになりました。

なにより、北森先生の作品について皆さんと時を忘れるほど話ができたことは、今思い出しても本当に楽しい時間でした。

味とめ会からの帰り道、北森先生の周りにはこういう人たちがずっといたんだなぁと、温かい気持ちになったことを一年経った今でも思い出します。

先生が生きていらしたら、もっともっと面白い作品をたくさん生み出してくれただろうと思うと悔しくてならないけれど、その悔しさ、寂しさを受け止める居場所を作り続けてくださったカズさんはじめ、酔鴻会の皆さんには感謝しかありません。

これからは遺された北森先生の作品を生かし続けることができるよう、自分にできることを探してみるつもりです。
でもSNSを駆使することはできそうにないけど(苦笑)

北森鴻を愛した人たちとの出会い / 杉浦眞樹

2018年1月28日、作家北森鴻氏を偲ぶ「酔鴻忌」に参加するため京都に向かった。

北森鴻との出会いは『花の下にて春死なむ』をなんとなく手に取ったことによる。ビア・バーの店主工藤が主人公の『香菜里屋シリーズ』が気に入り、北森鴻と云う作家が気になった。そして『蓮丈那智シリーズ』『冬狐堂シリーズ』を始めとする北森作品を次から次へと読んで行った。料理、民俗学、骨董などそれぞれの作品で作者の博識さに魅了された。気が付いたら北森鴻という作家の出版された単行本をほぼ読み終えて、新作が出るのを心待ちにしていた。

そんな時に北森氏の急逝の報に接した。

もうこれで「北森鴻の世界」と出会うことはないのだとガッカリしたのを覚えている。たまに旧作を読み返し、家族にも北森鴻を奨めていたが、食卓の話題となることは少なく、過去の作家の一人となってしまった。

そんな折、たまたまフェイス・ブックに北森鴻のファン・サイトを見つけた。そこには、北森鴻と北森作品を愛する人たちがいた。
このサイトで毎年「酔鴻忌」が催され、彼を偲んでいることを知る。
また「北森鴻」に出会える場所があると知ったが開催地が京都のため、なかなか参加出来ずにいた。

昨年の秋、北森氏が学生時代にバイトしていたという三軒茶屋の居酒屋「味とめ」でオフ会の企画があり、参加することが出来た。はじめて管理人のカズさんやN市のA氏、TAMAさんら会の方々とお会いした。初対面の方ばかりだが、北森鴻という共通の話題があり、すぐに打ち解けることが出来た。
嬉しいことに、北森氏の生前彼のパートナーであった作家の浅野里沙子先生にお会いした。失礼ながらお顔を存じ上げなかったので、浅野先生とは気づかず、ずっと隣に座っていた。席が狭く動きが取れなかったこともあったのだが、結果的には特等席になった。

浅野先生は、未完の蓮丈那智シリーズを『邪馬台』として完成され、さらに北森氏の未刊短編と(浅野さんによる)新作短編を収めた『天鬼越』を上梓された。再び「北森鴻の世界」と出会わせていただいた恩人でもある。読者として本当に嬉しいこと。

この三軒茶屋の「味とめ」会が「酔鴻忌」参加に繋がった。

さて、13時30分に渡月橋で「酔鴻忌」参加の方々と待ち合わせである。せっかくなので少し早目の新幹線で京都入り。今にも雪がちらつきそうな天気だったが、待ち合わせ時間まで2時間ほど嵯峨野周辺を散策、落柿舎や竹林をぶらりとして、渡月橋に向かう。

集合場所は、渡月橋南詰「あらしやま大市」である。すでに世話役のカズさんが待っていてくれた。ここで十数名の方々と合流し大悲閣千光寺へ。

大悲閣千光寺は、『裏京都シリーズ』で馴染みの寺だが、実際に訪れるのは今回が初めて。桂川を右に見ながら20分程上流にぞろぞろと連なって歩く。ほどなく大悲閣に続く参道の入り口に。参道は、結構急な階段で足元に注意しつつ登っていく。幸い地面に雪は残っていない。

途中で、雪がチラチラと舞い出したが、少し汗ばんだところで何とか大悲閣に到着。息を整える間もなく、すぐに会場の客殿へ通された。

客殿の祭壇に笑顔の「北森鴻」が出迎えてくれた。

「酔鴻忌」の参加者は22名。
「味とめ会」でお会いした方も何人かいらっしゃっている。

和尚による般若心経の読経が始まる。
参列者の焼香と続き、法要は無事に終了した。

その後の直会は、和気あいあいで楽しい雰囲気であった。
北森氏の所縁の品をかけた「じゃんけん大会」で盛り上がる。
私は北森氏の蔵書を戴いた。

なんだかんだで時間がアッと云う間にすぎて行く。
少し日暮れてきたところで納会。

思い出に残る大悲閣千光寺、そして「酔鴻忌」となった。

二次会は河原町の居酒屋。そのまま三次会と流れ込み、最後にはカズさん、N市のA氏、TAMAさんら数人でカズさんの知り合いのバーに連れて行って頂いた。地元の人に案内していただいた夜の京都は、いつもの観光とは一味違った京都であった。

北森鴻という作家を、その作品を愛し人たちとの出会いは貴重である。
それは北森鴻と云う好きな作家を失い、ぽっかりと空いた隙間、喪失感を埋めてくれる出会いである。彼らとの会話の中心は、もちろん北森鴻である。そして工藤哲也であり蓮丈那智である。北森鴻と彼の作り出した主人公たちは、私たちの中で確実に生き続けていると実感する出会いであった。

「ねえ、北森さん」 / 酔鴻会東京出張所 TAMA

ねえ、北森さん。
お会いしたこともないのになれなれしくてすみません。
でもきっと、北森さんなら笑って許してくださいますよね。

2003年頃だったと思います。
板橋区の図書館で、通勤本を探していました。文庫でミステリーが条件。
ふと手に取った「凶笑面」。
民俗学なんて難しそう、でも高尚な趣味もいいかも♪ と思いつつ借りてみました。
何気ない出会いでしたが、斬新な発想に一気に引きこまれました。何より文章が魅力的。
この文章にいつまでも浸っていたいと、冬狐堂シリーズ、香菜里屋シリーズと
貪り読みました。

ねえ、北森さん、懐かしい出会いもあったんですよ。
明治生まれの亡き祖父は若い頃戦争に行き、衛生兵だったそうです。
同居していた祖父が作る保湿液は、我家のハンドクリームでした。
その名も「ベルツ水」
数十年の時を経て、北森さんの作品でその名に出会えようとは!
「なぜ絵版師に頼まなかったのか」に登場する政府の雇われドイツ人医師
ベルツさんが作った化粧水「ベルツ水」。
北森さんはどこで「ベルツ水」に出会ったのですか?

ねえ、北森さん。見つけちゃいました。北森鴻のサイト「酔鴻思考」
ご本人らしき投稿もあり、思わず「ご本人とおぼしき書き込みが♡」と書き込んだ所
管理人さん(カズさん)から「ご本人ですよ。質問などしてみてください」と返信があり
舞い上がったまま連投。何を書いたか思い出せませんが、北森さんちゃんと返信してくださいました。

かくしてばりばりの北森教の信者となり、2009年9月には念願の大悲閣千光寺へと
向かいました。
桂川沿いの遊歩道を進み、最後の20分は胸突き八丁。やっとたどりついたお堂には
さわやかな風が吹いていました。出版されたばかりの文庫「ぶぶ漬け伝説の謎」が
置いてありました。
ねえ、北森さん。まさか数ヶ月後に訃報を目にするとは夢にも思いませんでしたよ。

ねえ、北森さん。大悲閣の集いに北森さんがいらしたら、どんなに楽しいでしょう。
飲んでしゃべってころがるように河原町に繰り出して・・・
三軒茶屋の味とめに北森さんがいらしたら、どんなに楽しいでしょう。
おかみさんに「しんちゃん、忙しいんだからちょっと手伝ってよ」とか言われながら
厨房に立ったりして・・・
そんな妄想にとらわれてしまいます。

ねえ、北森さん。
もうちょっと早くたどり着いていたら、お会いできていたかもしれません。
それが私の、この会に集う多くの方々の叶わぬ思いです。

でもね、北森さん。
北森さんを慕うたくさんの方とお会いし、在りし日の様子を聞き、想像し
北森さんここにいたらきっと楽しいよね!と語り合う時が
宝物のように大事な時間となりました。
北森さん、ありがとうございます。
これからも「おもしろいから読んでみて!」と布教活動にいそしみたいと思います。

北森さんと出会った日 / TOMIY27

2007年11月24日 三重県名張市の「第17回 なぞがたりなばり講演会」が、ミステリ作家・北森鴻さんとお会い出来た最初で最後の機会でした。

リレーミステリ『堕天使殺人事件』で北森鴻さんを知り、それがきっかけで一気にハマって貪り読んでいた頃でした。そんな時に名張の講演会の開催を知り、当時住んでいた大阪の家から、名張までは近鉄で繋がっていると知り、近鉄を乗り継ぎ、2時間~3時間かけて名張へ行きました。
往路の近鉄の車中、文庫になったばかりの『蛍坂』と、その表題作を読み、結末に感動したことをよく覚えています。

名張市は江戸川乱歩生誕の地。その縁で毎年、日本推理作家協会からミステリ作家を招かれ講演会を催されていました。この年、2007年が北森さんでした。
講演会の前に当時の名張市長の挨拶や、北森さんへの花束贈呈もあり、考えていたより本格的な行事で驚いたものです(笑)

この時の講演会の講演録はPDFで公開されて(掲載は休止中みたい)いますが、淡々と話される中でも、お得意の民俗学の話は真剣に語られていた印象でした。
その中に時折笑いを入れられたり、推協や親しい作家さんの裏話を語られたりと、とても楽しい講演会でした。
講演後の質問コーナーで「『裏京都』シリーズや『親不孝通り』シリーズ(両シリーズとも北森作品の中で気に入っている作品です)で、地元の人しか知らないような場所を書かれるのは何故ですか?」と質問させていただきました。 (実際は無茶苦茶緊張して、かなりしどろもどろでした……)

当時、山口に住まれていた北森さんは、福岡までよく遊びに来られていたとお聞きしました。福岡・博多の屋台の特殊さ(壁で囲まれている)を語られて話題を膨らませて、福岡でも京都でも「他の人が書いてないところを書きたかった」と質問のお答えを結ばれました。北森さんがお持ちの知識の幅の広さ、人生経験、人間の豊かさを実感したものでした。

この時に教えて頂いた『親不孝通りシリーズ』に登場する屋台バーのモデル、冷泉公園に出てる「えびちゃん」には6年前に行きました。カクテルも料理もとても美味しかったです!
サイン会では、なぞがたりなばりの会場で先行発売の形になった香菜里屋シリーズの最終作『香菜里屋を知っていますか』に。これが北森さんに頂いた最初で最後のサイン本になるとは、この時は夢にも思わず……

サインして頂く時、「母方の親戚が屋台の元締めなんですよ」
「そうなんですか!」
「香菜里屋シリーズ、最後ですが、また北森作品の登場人物が集まる(北森鴻作品は登場人物同士が作品間を行き来している)場所を作ってください」とお願いすると、「香菜里屋の2号店作らないとねえ(笑)」と。

浅野里沙子先生が書き継がれた『邪馬台』に、風の噂で香菜里屋のマスター・工藤の消息と工藤の親友・香月の店に北森作品の登場人物が集まるのは、物語上の必然はあるにせよ、もしかしたら私のような声が多かったからなのかな、と今になって思います。

サイン会の後だったと思うのですが、講演前にこの日の告知ポスターに秘められた「暗号」がクイズに出されて、その解答が企画されたN市のAさんから。その解答に、北森さんも苦笑されて「これ分かる人、特殊な思考をお持ちな方ですよ(笑)」と。
実際、正解者ゼロでした(笑)

賞品の北森さんのサイン入りポスターは、私を含む解答者全員にプレゼントされました。
今でも大事な私の宝物です。

この日、同じ会場に居た方と後に知り合い、今でもミステリを通じて交流があることは、北森さんの遺徳だと思っています。

2010年1月25日に、北森さんがお亡くなりになった時、ある作家さんのmixiで訃報が伝えられた時は、本当にショックでした。

第2回~第6回まで参加させていただいた酔鴻忌では北森さんのお兄様や、カズさん達ご友人の方々、パートナーの浅野里沙子先生といった、北森さんをよく知る方々とお会い出来て、たくさん北森さんのお話を聞かせていただきました。
そして、全国から集まった老若男女の北森ファンの皆さんとの語らいは、北森作品のみならず、様々な話題が飛び交い、どこか香菜里屋の常連達を連想したものでした。

この中に香菜里屋のマスター・工藤さんのように、北森さんにいて欲しかった。
心からそう思いました。

なぞがたりなばりでは、もう一つ忘れられない話があります。
北森さんが山形の米沢を旅行された時、香菜里屋という名前まで一緒なビルに入られ、一階のレストランに北森さんの本が全部置いてあった(笑)という話です。
この後に何度か米沢に行ったのですが、ずっとそのビルを見つけられませんでした。
今年、2018年5月に10年振りに米沢を訪れた時、ようやくそれが叶いました。今はもう無くなって、違うビルになったようですが、看板だけは残っていました。

ようやく北森さんの足跡を見つけられた、北森さんと会えたような気持ちでした。

那智の滝 / ねぎママ

「ビブリア古書堂の事件手帖」の登場人物に、滝野蓮杖(たきのれんじょう)という人がいるが、これはもしかして、蓮丈那智、那智の滝、からの発想ではないか…
と、独り推理する私なのでした。
三上先生も、キタモリストだったりして?

北森鴻記念館オープン! / 浜門真吾

いよいよ北森鴻記念館がオープンした。
ファンサイト「酔鴻思考」はかつて北森鴻の家であったが、サイトの更新終了が決まったことで記念館へと様変わりしたのだ。
かつて北森さんの家(=公式サイト「酔鴻思考」)は主人の人柄に惹かれて多くの人々が集まり賑やかだった。北森さんは家を訪ねてくるファンをいつでも持ち前のサービス精神で歓待してくれた。
公式サイトの掲示板に北森さんも度々登場し、ファンとの会話を楽しんだ。
作品の登場人物にファンの名前を使用するという私たちファンには垂涎の大胆企画も打ち出した。掲示板で希望者を募り、抽選会を開いた。当選した人は北森作品に自らの名が刻まれ歓喜したことは言うまでもない。
また、仲間たちで北森さん縁の場所である京都嵐山の大悲閣「千光寺」、川崎市溝の口「時代屋」、東京世田谷の三軒茶屋「味とめ」などに集まり酒を酌み交わした。
クールを装うもののお酒が入ると賑やかで楽しい北森さんを中心にいつも笑顔が溢れていた。

しかし、2010年1月25日、主人の北森さんが亡くなった。
訃報は出版社に勤務する大学の後輩からのメールで知った。
しばらくは何も手につかないほどの喪失感であった。

それでも北森さんを慕う人々は北森家を訪問し、酔鴻会をつくり、故人となった北森さんのことを語り合った。生前の北森さんを知らない人々も京都で営まれる法要に参列し酔鴻会の仲間は増えていった。
 しかし、主人のいなくなった家は時の流れと共に訪問する人も減り、かつての華やぎは感じられなくなってしまった。
 そんな状況が続いていた今年の春、サイト管理人のカズさんから一つの提案があった。北森さんのことについてみんなで文章を書き残しサイトに掲載する、それを最後にサイトの更新は行わないという、いわば北森家を記念館への改装ともいうべき案であった。

 その提案は長年サイト運営を続けてきたカズさんの決断であり、みんながその提案を黙ってそして前向きに受け入れた。私も拙いながら北森さんの人柄とエピソードのいくつかを記念館に展示していただくことにする。

北森鴻の頭の中
 ファンの間では承知の事実であるが、北森さんはこれから書こうとする作品のアイディアをたくさんもっていた。頭の中には無数の作品構想があって、それが会話の端々に出てくることがしばしばであった。
 北森さんの頭の中はどうなっているのか知りたいと思っているとある時「ライター時代のインタビューなどで蓄積した知識を引き出しにしまってもっているので、どの引き出しを開けるのかを見極めて作品を書いている。」というようなことを北森さんが話してくれたことがあった。
結局、どれだけの引き出しがあったのか、わからぬままである。本当は読めるはずだった作品を読めなかったことが今更ながら残念でならない。

義理堅い人柄
私と北森さんは出身大学が同じである。1年間同時に在籍していた時期があるが、学生時代には出会うことはなかった。 卒業後、私は母校の職員として勤務しており、北森さんが『狂乱廿四孝』で鮎川哲也賞を受賞したことを知った際に北森鴻が誰かを(本名が判らなかったが何とか)探りだし、学内新聞に新入生向けのメッセージ寄稿をお願いしたことから親しくしていただいた。
いずれは直木賞作家となる可能性を秘めた才能の持ち主と知り合いになれたことは私にとって幸運以外のなにものでもなかったが、一方、北森さんは長編デビュー直後の作家北森鴻の存在を母校に広めたことに恩義に感じてくれていたようである。
『凶笑面』がTVドラマ化(2005年9月16日に放送)される際に、番組の製作スタッフが大学に撮影場所の提供を依頼してきた。聞けば北森さんが是非とも母校で撮影してほしいと製作スタッフに進言したとのことで北森さんの義理堅さに感動したものである。
残念ながら主演の木村多江さんの撮影可能日が大学のイベントと重なって実現できなかったが、蓮丈那智の研究室となるはずだった場所は東京都歴史的建造物に指定されている禅文化歴史博物館の一室であり、ドラマ化された映像を見てみたかったと今でも思う。
そういえば当時、北森家に集まってくる人々の間では蓮丈那智役には誰がいいか、やれ三國は誰だといった話題で盛り上がっていたことを今思い出した。

北森さんとお酒
初めてのファンの集いは裏京都ミステリーシリーズの舞台となっている京都嵐山大悲閣「千光寺」で催された。 息が上がる山道を登りようやく目的の千光寺に到着すると北森さんがおもむろにバックの中からバーボンウイスキーを取り出し、境内の湧水で水割りをつくるようカズさんに手渡した。
「これが最高!」と皆に薦めてくれた北森さんの顔が今でも昨日のことのように思い浮かぶ。確かに身体に沁みこむ純粋な味でうまい酒だった。その時の銘柄はIWハーパーだったと記憶している。
その後の集いでも北森さんが紹介してくれる酒は悉く秀逸だった。
「獺祭」「醸し人九平次」など、その後人気となった日本酒も北森さんに全部紹介してもらった。

宿河原散策
 神奈川県川崎市多摩区宿河原○―△―○。
 北森さんは名刺をよく人に配った。偶然居酒屋で出くわした学生にまで名刺を配り、もらった学生が大喜びしていた。  そこに書かれていたのが冒頭の住所である。
 東京から宿河原は遠くないものの北森さんの生前は一度も足を踏み入れたことはなく、スナック「セブン」のマスターがガラガラ声で私のことを知っている(北森さんが話していたらしい)と宿河原に住む職場の後輩から聞かされても行くことはなかった。
 しかし、北森さんが亡くなって数年後、そこはどんな景色なのか記録に残したいと思い立ちニコン1台を肩にかけて散策にでかけた。北森さんが住んだ町は妙に懐かしく、駅から仕事場までの道筋にある飲み屋を見てはそこに座る北森さんの姿を想像した。件の「セブン」は発見できなかったが、妙に懐かしく次は酔鴻会のメンバーと来てみようと決めた。実現しないまま今日に至っている。

これからの北森鴻の楽しみ方
奇しくもサイト運営中止が発表された今年の春、その人生を誠実に生き抜いた私の母が逝去した。肉親の死に接し、生死について考える時間が増えた。そんな時に出会った一休宗純のうたが心に沁みた。

死にはせぬ どこへも行かぬ ここにおる 尋ねはするな ものは云わぬぞ

 北森鴻の居場所として酔鴻思考サイトは家から記念館へと形を変えて残る。また、数々の北森作品も残る。尋ねはできないが訪ねることはできる。訪ねて北森作品をより深く読む楽しみは残る。
これまで気づかなかった作品に秘められた魅力を発見できるよう繰り返し読んでみようと思う。
そして、それをこれから出会うであろう多くの人々と語り合いたい。
そうする限り北森鴻は生き続ける。
物質的な死は本来の死ではない。語り継ぐ人がいる限りその人の魂は残る。そんな言葉を今は素直にそのとおりと思える。

了 

あとがき 「北森鴻」と私 / 林 佳生里

はなのもとにてはるしなむ (『花の下にて春死なむ』)で北森鴻に初めて出会った。短編推理小説を書く人。

本屋の棚をみて回ることが好きで、ある日宣伝ポップの「三軒茶屋」の文字に目が止まった。青春の日々が蘇り、手に取った。

工藤マスターが好き。黙って話を聞いてくれるし、ジンライムにちょっと遅れて絶妙な塩梅の塩辛を出してくれそうだから。

有馬次郎が好き。器用で閃きがあって知恵が回って最後に絶対助けてくれそうだから。

陶子も好き。2年に一度くらい会って旅して、「あそこの店で見たんだけどね」と話せそうだから。

まだ出会っていない北森鴻が描く主人公がいたはず、新作があったはず。どんな人でどんな成りでどんな話だろうか。ワクワクしてくる。もっともっともっと、もっと読みたかった。

北森作品との想い出 / ふでまる

最初の出逢いは姉のおすすめでした。
「途中で難しくなる部分もあるが最後まで読むと面白いよ」と『メイン・ディッシュ』を渡されました。
その時は途中で苦しくなった部分もありつつも助言 (?) に従い読了。
おもしろかったなぁ~ いいの教えてもらったなぁとその時はそれで終わりました。

次の出逢いは図書館でした。(当時は学生でお金がなかったのでよく通っていた)
ふと本棚を見ると渋くて目を惹く装丁のハードカバーが。
『緋友禅』、でした。
あっという間に読み終え、冬の狐さんのシリーズものを読み漁り、蓮丈先生、工藤マスター、「裏京都」シリーズ…

「香菜里屋シリーズ」、休み時間に読んで何度ヨダレをぬぐったことか…。

あの知らせの第一報も姉からでした。
Yahooニュースに出ている、と。
悪ふざけをするような人ではないとはわかっているのですが、それでも
「嘘でしょう」
と返事をしてしまいました。

その後もいくつかの本が刊行され、読ませていただきました。
シリーズ途中で終えるものになってしまったり、作品が未完で終わってしまったもの…
もっとたくさん、読ませて頂きたかったなぁ…。

いつか、私が天に召された時にお会いできたら未完の作品の続きをお伺いしてみたいものです。

米澤穂信さんのインタビューで
「誰かミステリ作家の魂を召喚出来るならだれがいいか」
という質問の答えのひとつに北森鴻さんの名前を挙げていて
こうやって他の誰かにバトンが繋がっていくのだろうな、と思いを馳せるばかりです。

北森さんの作品を通して素敵な同志たちに出逢えたことに感謝しております。
北森さん、本当にありがとうございます。
カズさんも9回も酔鴻忌を開催してくださって本当にありがとうございます。

これからも色々な作品、人に出逢える人生でありますように。

Non title / べには

これを書いている今、最後の酔鴻忌2日前です。
webの更新作業をしていたのですが、作業してたら「まぁ書いてみよか」という気持ちになり、カタカタと打ち込んでいます。
自分で打ち込んで、自分でwebに反映するので制作者の特権ということで大目に見てください。

面白い出会いだったとか、そういうのもなく、私にとってはここ数年の酔鴻忌の告知ページを作るというお付き合い。
お付き合いというか、そういう時期なんだなぁ、と再認識をするといった感じでしょうか。
大体、夏の終わりか秋の始まり頃にカタカタと作り、実務から離れて久しいのであーだこーだとこねくり回し、提出。
きっと、見にくいページだったこともあるでしょう、ごめんなさい。
そして、作った本人は様々な事情で2~3年に一度程度の出没。
行けなくて残念だなぁとは思うのですが、「酔鴻忌の告知ページを作る」ということが私の中では酔鴻忌の一部であったようにも思います。
なので、今年はもう来年の告知ページを作ることがなく、数年前と同じような夏や秋へと戻っていきます。
その時に酔鴻忌の終わりを実感するんだろうなぁ、とぼんやりした感覚でいます。
何を思うのかはその時まで分からないですけど、きっと私の酔鴻忌は今年の夏までやはり、ぼんやりと続くのでしょう。

終わった後は、どうしましょう?
名張の講演会の際に「生まれは周防大島なんです」と言ったら「宮本常一先生の生まれ故郷ですね」と返して頂いたので、周防大島の宮本常一記念館でも行きましょうかね。
行ったことないし。

あと……、
と書き出すと終わりが見えない文章になる気もしたので、書くつもりはなかったのです。
こうやって、思っていることとか文章にすることもなかったですし。
でも、私の今の任務はとりとめない文章を書くことではなく、無事、webの更新作業を終わらせることです。
終わってからもう一度、ちゃんと考えてみることにします。

とりあえずは、今は無事、webページができますように。

Non title / まきを

私にとって北森さんとの出逢いは宝物。
背が高くてダンディーで素敵な声でお話も楽しくて…。
勇気を出して第五回酔鴻忌に参加(管理人カズさんが昔からの知り合いなので心強かった💦)してから毎年必須行事。
今でも酔鴻忌に参加した時はふらっと北森さんが現れるような気になる。
またいつか酔鴻忌が復活して皆さんと会えることを願っています。

『香菜里屋』という名の / 宮本 智子

「とっておき」という言葉を口にする時、私は少しの誇らしさと、「秘密にしておけば良かった」というささやかな後悔の念、そんな二つの感情に捉われることがあります。
そしてそれは『香菜里屋』に集う常連客の描写の中にも、見え隠れしている感情だと気づいてしまうと、彼らにとってもやはり『香菜里屋』は特別な店なんだなと思って嬉しくなります。

ビアバー『香菜里屋』を舞台に、マスター『工藤』を探偵役に配した、安楽椅子探偵モノで構築された世界は、本当にお見事としか言いようがありません。

アルコール度数の違う4種類のビールと、
マスターの温かな人柄、
そしていくつかの謎…。
全てに「酔える」極上のビア・バー。

私はいつまでも、そんな『香菜里屋』の常連客の一人でいたいのです。

一冊の本から🎵 / ゆず

あの時、おもしろいかな♪ と思って手に取った一冊が無論おもしろかっただけでなく、こんな風に人との出会いまで生み出すとは思っても見ませんでした。
あ、ちなみに花の下にて~です。